1890
卓越したカッティングで名声

1860年に生まれた初代ルイ・モニッケンダムは、当時のダイヤモンド産業の中心地アムステルダムで、ダイヤモンド・カッターとして活躍。卓越した技術をもつ「マスターカッター」の名声を得ます。そして1890年、ダイヤモンドカッティングの会社としてモニッケンダム社を創立しました。

1914
イギリスでの歴史のはじまり

アムステルダムで、モニッケンダム社の地位を築きつつあった1914年、第一次世界大戦が勃発。アムステルダムにはドイツ軍が侵攻し、ルイは英国へ移住します。この移住により、ルイの名声は、英国で花開くことになります。ルイは、本社を宝石商の街として栄えるハットンガーデン、カッティング工場を英国王室の別荘地としても知られるブライトンに設立。モニッケンダムダイヤモンドは高品質の代名詞として、英国のダイヤモンド産業発展に大きく寄与しました。

1920
アルバートの世界進出戦略

2代目、アルバート・モニッケンダムは、ルイの高い技術と思いを受け継ぎました。アルバートは、原石をカッティングにより光り輝かせることを「原石に命を与える」と表現。カッティング技術の向上を図るとともに、多くの優秀なカッターを育てあげました。 世界展開にも尽力し、1920年、社名A.MONNICKENDAM. LTDに変更。ニューヨークの5thアベニューに支社を設立し、モニッケンダムダイヤモンドは、世界へと羽ばたくことになります。

1929
近代的な生産体制の創造

アルバートの数多い功績の一つとして、近代的な工場の設立が挙げられます。ブライトンに作られた工場は、以後のダイヤモンド産業の模範として高く評価されました。また、高品質のダイヤモンドの条件となる上質な原石の見極めにも優れ、1929年、デビアスがCSO(中央販売機構)をロンドンに設立した際、最初に原石を入手しています。モニッケンダムダイヤモンドを、世界中の名門ジュエラーに提供できる体制を整えたのです。

1938
ダイヤモンドの評価基準を整備

モニッケンダムが世界に先駆けて行ったのが、ダイヤモンドのカラーおよびクラリティの品質をグレードで示す、格付システム。カラーはアルファベットの「A」から、クラリティは数字の「1」から、明確な基準で表示しました。現在、GIA(米国宝石学会)によるグレーディング基準「4C」において、カラーのグレードが「D」から始まっているのは、モニッケンダムによる「A」から始まるグレードへの敬意からだと言われています。

1948
英国王室との深い関係

名実ともに、英国を代表するブランドとなったモニッケンダム。1948年に、エリザベス女王のご結婚祝いとしてタンガニーカ(タンザニア)政府から寄贈されたダイヤモンド原石のカッティングを担当。エメラルドカットを施したイヤリングの美しさは、世界中から称賛の的となりました。英国王室との関係は続き、現在の王冠にも、モニッケンダムがカッティングしたダイヤモンドが輝いています。また、モニッケンダムは、王室が所有するダイヤモンドコレクションを修復する際のアドバイザーも務めています。

1954
時代を画する「サークルオブラスター」

アルバートは、ダイヤモンドをより美しく輝かせるための技術開発にも努めています。当時、ダイヤモンドはガードルを研磨することはありませんでしたが、アルバートは1954年、ガードルをファセットなしで磨き上げる「サークルオブラスター」の技法を開発。名前の由来は、ラウンドブリリアントカットのダイヤモンドを真上から見た際、ガードルがまるで光の輪のように輝きを放つことから。今では、他社も取り入れている技術となっています。

1965
技術の追求が生んだ世界最小フルカット

初代から面々と受け継がれた、カッティング技術の追求により、モニッケンダムには多くの優れたカッターが育成されました。1965年、生え抜きで技を磨いてきたキース・ボーエンというカッターが、1/607カラット (0.00164ct)のダイヤモンドに、58面体のフルカットを施すことに成功。道具の製作に7ケ月、8個目の挑戦でした。この世界最小フルカットダイヤモンドは、モニッケンダムのカッティング技術の高さを示す、象徴的な出来事となりました。

1966
英国ダイヤモンドのリーダーとして

アルバートは著述家としても高く評価されています。ダイヤモンドに関する知識をまとめた「The Secrets of Diamonds」と「The Magic of Diamonds」の二冊は、現在もダイヤモンドのビジネスに携わる人の教科書的な存在。モニッケンダムは、一企業としてだけではなく、確かなカッティング技術と厳格な品質管理等、世界のダイヤモンド業界をけん引するリーダーとしての役割を担いました。当時、全生産量の90%は海外へ輸出され、日本への輸出が始まったのもこのころです。1966年、英国のダイヤモンド産業、経済への貢献が認められ「英国産業賞」(The Queen’ s Award to Industry)が授与されました。

1966年英国産業賞受賞。賞を受け取るアルバート(左)と1/607ctのフルカットに成功したカッター(キース ボーエン= 奥)。

1966
アーサー
「原石からマキシマムラスターを取り出す」

アルバートの息子、3代目アーサー・モニッケンダムは1946年入社。アーサーは「原石からマキシマムラスターを取り出す」とのモットーを掲げ、ダイヤモンドが持つ最大限の輝きを引き出すことに邁進しました。1974年には息子ギャリーも入社し、父とともに、原石の鑑識眼、研磨技術の向上に努めました。なお、アーサーは、ダイヤモンドのオーソリティとして、ロンドン商工会議所にダイヤモンド業界代表として参加。欧州13ケ国で構成される貴金属連絡会議(CIBJO)の英国代表としても積極的に活動しました。

1981
技術と理念は、未来へと続く

4代目ギャリー・モニッケンダムは、「原石のもつすべての良さをとり出す」のポリシーを掲げました。一つ一つの原石から、最も美しいダイヤモンドを作り出す、カッティングのデザイナー、クリエイターとして評価されています。
なお、ギャリーは、1981年に社名を現在のMONNIKENDAM DIAMOND LIMITED に変更、さらなるブランド価値の向上に努めています。モニッケンダムは、直系オーナーが継承するダイヤモンドブランド。創業者ルイ・モニッケンダムから綿々と続く、技術と理念を継承し、歴史を未来につないでいます。

2008
7.03ctのダイヤモンドが、史上最高額で落札

2008年、南アフリカのカリナン鉱山から、26.58ctのブルーダイヤモンドの原石が採掘されました。この希少性の高いダイヤモンドのカットを行ったのが、モニッケンダムです。慎重かつ綿密な計画の元、7.03ctの見事なクッションカットが施されました。このダイヤモンドはGIA(米国宝石学会)により、ファンシービビッドブルー、インターナリーフローレスという、極めて価値の高いダイヤモンドであることが証明されています。大きな話題となったこのダイヤモンド。2009年5月にジュネーブで開催されたサザビーズのオークションに出品され、約9億1600万円(当時)、1カラットあたり約1億3000万円の史上最高額で落札されました。ダイヤモンドの無傷の美しさ、そして、モニッケンダムの卓越したカットが、文字通り最高の評価を受けたのです。